昭和43年11月23日 月次祭
末永静行(№43-183)
お月次祭、前の前講を伊万里の竹内先生がおかげを頂いて下さいました。初めて先生のあのような話を聞かせて頂きました。その中に、疑いと疑問と言うような事があの御理解、教典感話集に載ってあります。疑いはもってはいけない、疑問は大いに持つべしという訳です、疑問がなからなければ進展しない、進んで行かない、ね、竹内先生あたりのように、もうお母さんの体内からのご信心を頂いておられるのでございますから、もう体験の上にはもう金光教と言う信心を、もう、疑う余地はもう全然ない、有り難い神様であることもよう分かられる、子供の時からそれを痛感しておられたんです、ところが段々おかげを受け、または信心を進めておいでおられると次から次と湧いてくる疑問は雲のように限りがない、そこにお互いの向上があるわけですね、そこでその疑問を解いて下さる人がないものかと、と、まあ、一番はじめにお会いした時に、これは先生の言葉でしたけれども、ね、それこそ、諸国安じゃしてでもこの事を教えて頂けれる人があるならばと求めて求め抜いておったと言うておられました、と言うほどに熱烈に、いやば、お道の信心を求めておられる訳です、そう言う意味で疑問と疑いの違いが分かるですね皆さん。
ですから、疑問はやはり、ね、お勉強でもそうです、習うた事は分かる、分かるからそれをまたやってると分からない事にぶつかる、分からない事にぶつかる、ぶつかるからそこをね、やはり自分でも練って練って分からんところを尋ねて行かなければいけない、その尋ねても与えられない空しさと言うものがです、ね、もうどうにもしようもない、それこそ、先生の言葉で言うなら、死んでも死にきれんと言う思いであったとこう言うておられる、ね。
皆さん、私は信心はここまで一つお互いが追求して行かなければいけないと思うんですよね、どうでしょう皆さん、これを分かったらもういつ死んでもいいと、また言うておられます、もうこれで分かってしもうたじゃないけれども、そこの、もうこのまま続けて行けば、このまま親先生にお取次ぎを頂いて行けば、ね、分からん事も分からせて頂けれる、まだ、その、分からん事が分かってないだけである、ね、だから、これから信心を、それこそ、心身を通してお互い進めておるのでございますから、まあ、限りなく、これは私とても分からん事ばっかりですけれども、ね、そこは、一つ一つ分からせて頂いておるわけでございます。
次に、こう言う事を言うておられますね、こちらに御神縁を頂いてです、初めて、教祖様が教えておられる信心、それを現して下さる人に出おうたと言うておられます、ね、お話はもうそれこそどれほど聞かれたか分からない、金光教だけではない、禅の道までそれを求められた、修行もされた、ね、けれども疑問は限りなかった、ね、教祖様が教えて下さる事は立派だと思うけれども、それが分からない、ね、そこを分からせて頂けれるという事が有り難い、皆さんも合楽に御神縁を頂かれて、ね、段々おかげを受けられて、段々信心を進めておいでいられて、ね、そこんところが分からせて頂く信心を一つどうでも頂かなければいけないと思うんですね。
そんなら、私はお話を頂きながら思うた、竹内先生はあー言われるけれども、私はどこに神様をそのよう現しておるであろうか、教祖様の御教えをどう言うふうに現しておるであろうか、ずいぶんご本部に会議に出るたんびに日本一といったような先生方ともうずいぶんお会いになられた、度に求められた、けれども与えられるものはなかった、それがどうして合楽で与えられたか、椛目でそれがおかげを受けられたか、私はどこに何をどう言うふうに現しておるか自分でも分からない、ね、ただ、なるほど、ここでは段々一年勝り、言うならば、日勝り、月勝りにこのようにおかげを受けておる、ね。
例えば御広前がこのように立派になったと思うたら、もう今度は造園と言う感ながらな働きの中に今、役員の方達から御挨拶があったような話が進められて、この御広前にふさわしいお庭が出来ようとしておる、ね、そう言う声がかかったらもう我も我もと喜んでその御用に打てば響くように響き応えておられるという事、近い将来にまた見事な庭ができる事であろうと、そのようなものでけていく、そう言うものが完備して行く、なるほど神様じゃなあと、信心のない方達がこのお広前に二年間もかかって、はぁーあげなんものが出来よるなんじゃろうかと、あげなん事でよかじゃろうかと言うふうに、まあ、普通から見えた、ところが段々段々形が整うてきて二年後にはこのお広前が出けた、さすがに、やっぱり神様ばいと言うてその信心のない方が言うておられるのを聞いたと言うて私に聞かせてくださることがあった、やっぱり神様じゃなという事である、ね。
しかも、感ながらにこのように整うていくという事、その事がです、その事が私が現しておるであろうか、それならば大した珍しいことはないと私は思うのです。そんならばここよりももっともっと、もっともっと素晴らしいお広前があるんだ、もっと完備したお広前があるのだ、もっとたくさんの信者をようした教会は日本中にたくさんあるのだと、ね、ここに天地の親神様の、いわゆる、教祖の神様のお取次ぎによって、教祖様が現された神様を現にここに、ね、百年後の今日、ここでそれをそのままに現しておる、ね、あー言うおかげも受けられる、こう言うおかげも受けられると言う、言うならば実証がある、そういう事に例えば実証があるからと言うてです、なら、それが私は現したことにならない、ね。
竹内先生が言われる、ね、ここでは先生がそれを現しておられる、ね、天地の親神様のお働きを金光大神のお言葉通りにお取次ぎのまにまにそう言う働きがここに現れておるという事にです、ね、開合された、初めてそれに会われた時にです、ね、これで死んでも良いと思うた、ね、朝に道を求め、夕べに死してもかと言う言葉があります、実にそういうような御心境であると私は思うのです、そんなら私にそう言うものが私のどこからそれを感じ取ってくださったんだろうか、また、感じ取ってくださるなら、皆さんもやはり同じ感度で受け取って頂きたい、そして、合楽に御神縁を頂いたという事をです、こえなくも有り難いものに皆さんが感じて頂きたい、そして、日にちを有り難い、勿体無いと言う信心になって行って頂きたい、そして、いつも死んでももう本望だと言うところまでです、心を開いて頂きたい、ね。
今朝の御理解、今朝の朝の教話、御理解第二節でございました。先の世までも持ってゆかれ子孫までも残るのは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る尽てるという事がない。信心する者が皆が受けれると、ところが実際は皆が受けていない、これは教祖様が嘘を仰ってる事になる、いや、もうこの御教えなんかは、いやこうはいうちゃおられるけれども、こんなに受けられるもんじゃないと思う鷹がを括っておる、皆がおかげを受けられる、もう十年も二十年も信心をしておるけれども、これがお徳だろうかと言ったようなものを受けてないとするなら、ここに私はですね、一つ思うてみらなければならないことがあると思うんです。
神徳は信心すれば誰でもが受けられると言うておられる、だからこの信心すればと言うこの信心が問題なのだ、ね、ただ参っております、拝んでおります、お話を頂いておりますだけじゃいけんのである、ね、ここんところを求めて行かなければならない、いわゆる、何事も信心になれよと、信心するものは何事も信心になれよと言う信心にならなければならないということ、ね、それを簡単に言うならばです、いわゆる、信心、いよいよ神様を信ずる力を頂かせてもらい、いよいよ私の心が真心になって行き、いよいよ自分の心が神心に向かって進んで行くといったような信心です。そう言う信心を目指させて頂いて、そう言う信心が身について行く時に誰でもがお徳が受けられるという事になるのである、参ればおかげを頂くという事ではないのだと。ね。
私は竹内先生のお話を頂きながら、私が現しておる神様はどのような経路を辿って現れてあるだろうか、私がここで現しておると言う神様はどう言う神様で、いや、どう言う神様が金光大神の働きに天地の親神様の働き現れておる訳でございますけれども、ならどういう経路を辿って私の信心は神様を現す事が出来る事になっておるのだろうかと、ね、ははぁーここんところが、ここのところがただ現しておられると言うだけではない、おかげを受けておるという事だけではない、これが違うのだなぁという事を私は今晩にまた改めて感じさせて頂いたのでございました。皆さんどう言う事だと思うんですか。ね。
ですから、その事が分かったらです、皆さんもまたその事にならなければねいけない、皆さんの上に現れる神様、それは竹内先生が、いわば、一遍で帰依された、一遍で今まで自分が求め抜いておった神様はこれだと、と感じられた、それはどう言うところから頂けれる神様であったかと、まぁそれをはっきりお話をしたとも今日来てませんけれども、私の信心の、まあ、いわば、筋金ともなっておるもの、それはどういうことであるかと言うとですね、氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからと言う三代様のお言葉が私の信心の筋金になっておるように思うのです、ね、私が神様任せになるから、天地の親神様が私任せになって現れてくださるのであるという事なのです、ね。
皆さん、だから、どうでもここんところをですね、繰り返し繰り返し稽古なさらなければいけないという事になります、ね。そして初めてです、合楽に御神縁を頂いておったという事が有り難い。
昨日、あっ、今日の昼でしたか、昼四時の御祈念の時でしたでしょうか、御祈念中にふうっと私感じる事があった、ほんにどこどこの教会の何々さんがおかげを受けられんと言うてここに参ってこられて、何回か参って来て、本当にこんなに有り難い御教えは初めて頂いたといいながらその後さっぱり参ってみえない、というて信心を止めておられるふうでもない、やはり、自分のお手続きを頂いておる教会に御神縁を頂いておられますからご信心を続けておられる模様である。
そしたらね、私が心眼に頂くのが、今、泉水がでけて、泉水に大きな金鯉とか銀鯉がいっぱい泳いでおります、毎月次祭たんびに一匹づつ大きな、今も私は見てきた、もうあんまり大きい、大きな、ところがですね、やはり大きいのは大きいのに連れなるんですよ、だから、小さいこのぐらいなひぶなが入ってるんですよ、三匹入ってるんです、これはもう絶対つりな、もう、どこにいっても三匹は、もう三匹は繋がっておるように泳いで回ってるです、ね、ところが大きいのはやはり一打になってこうやって泳いでるです、どこへ行っても皆一緒大きいのは大きいのを小さいのは小さいづれである、いわゆる、牛は牛づれである、その小さいひぶながね、三匹こうやって泳いでおるところを頂くんです、ははぁーなるほどな、おかげを頂きなさらにゃと思うけれども、まあ、牛は牛連れ、ですから、ね、あちらが小さいか、こちらが大きいのかはそれは分かりませんけれども、結局ね、ここに御神縁を頂いてここに信心の稽古をしておる人達はもうこれから離れられずにこうやって泳いでおる、ね、小さいのは小さい者が、それはもう仕方のない事である、ね、こちらの連れに持ってこようと思うておっても、もう、そこに一つのもう運命と言うかね、そげなん定まったものがあるらしい。
皆さんは例えばなら私を先頭にしてです、こうやって泳いでおるわけなのである、ね、竹内先生なんかはもうずいぶんと、それこそ、一匹であちらこちら泳ぎ回っておられた、どこにか自分の連れになるようなものがなかろうかと思うて、まあ、おられるところへたまたま古賀先生と言うちゅうかいお導きによって合楽の胸の中に入ってこられたらです、やはり、これに丁度良い具合に、いわば、まあ、小さいのが小さい者同士と言うか、大きいのが大きい者同士と言うか、そう言う瓜の元におかげを頂いておるという事がいえれるのです。ね。
ですから、私がおかげを頂いておるようなおかげは皆さん私の後一条にね、頂いて下さらなければならんのです、それが神様の願いでもあるのです。だから、皆さんの願いでもなからなければいけんのです、そげん先生のごたるおかげは頂けんでもよかっちいう事はない、必ず皆さんが金光様の先生に皆ならなんちいう事じゃない、ね。
いわば、一つの私なら私という者を先頭に私が右に行きゃ右、左に行きゃ左にこう泳ぎまわって行かなければならないけれども、そう言う一つの瓜の中にこうして御神縁を頂いておるけれども、果たしてその中に、ね、一応に泳ぎ回りがでけておるかどうかと、ね、いわゆる、ね、先生はあー言われるけれどもと言う「けれども」がついておりはしないか、ね、そこに、例えば同じ餌が頂けない、ね。
氏子が神様任せなら神様が氏子任せになると仰せられますからと、ね、その事をいよいよ御理解下さる、船はほま風、風任せ、ね、それは、舟はほま風、風任せという事は親先生任せ、ね、お互いが、例えば一つのほま風の親先生任せになろうと思う、ところが少し風が吹いてくる、風が吹いてくると、もう、ほま風にならずに、もうゴロゴロ砲をたたんでしまう、船はそこへぐるぐる回っりよってしまう、その風を利用してこそ、私は、ね、思い以上なところへ到着させて頂くようなおかげが受けられるだけれども、そういう事になってくる。
神様任せという事はなかなか難しい、ね、ですから、任せになるという事よりもです、まず先に一つ稽古しなければならない事がある、ね、それはどういう事かと言うと、もう、いよいよ、私には力がないという事を分かる稽古をしなければいけん、ね、いよいよ吾は無力だと、いやば、いよいよ、障子一重がままならない人の身であるという事をです、頭ではなくて実感として分からせてもらうおかげを頂かなければ出来ん、ね、ところがここがなかなか難しい、ね、そこの稽古をさせてもらう、もう本当に自分で出来るという事はこれから先でも出来る事ではない、同時にこの神様のおかげを頂かなければここ一寸が動かれんほどの私達であるという事も知らなければならない、ね。様々な問題を捉えては、はぁー本当に自分でしよるように思いよったけれども、神様のお許しを頂いてこう握っておったんだなと、自分がここに自害をしてみて初めて分かったと、( )になって初めて分かったという事になるんじゃないでしょうか、自分で食べよると思いよったけれども、許されて食べておったんです、さぁー風邪を引いて熱がある、もう食べたい、あの、食べたい、食べなきゃ成分がつかんといわれても、さぁーのどを越さないのである、ね、そう言うところから一ついよいよ自分が無力であると言うを分からせて頂いたらです、神様の前に無条件に降伏をするより他はないのである、無条件に神様の前に手を上げる他にないのである、だから、いわば、ピストル突きつけられておるそれのようなものである、右にいけ、左にいけといわれればその通りにしなければおられないのである、ね、そこからね、なるほど神様任せになるという事がこのように有り難い事であり、このようなおかげを頂かれるという事が分かって来る。私はね、そこんところを頂いておるように思う、そこんところを神様、いわば、なくなくでも、そこんところを辛抱させて頂いて、神様それは右のほうが本当ですと思うても神様が左と仰りゃ左のほうを取らせて頂いて行くうちにです、段々おかげを頂いてきたとこう思うのです。
今日はここんところを三代金光様の御述懐のお言葉から頂いたんですけれども、ね、まだ御年十三歳、数えの十四歳のお年から御結界に奉仕された、まだその当時の高等小学校中途退学されて、ここにお座りになった、親様が亡くなられた、四神金光様が亡くなられた、そして、摂をここへ据えてくれということであった、ね、親様が言われる事だからと、座っておれば楽だと仰ったから座ったけれども、決して楽ではなかったと、始めの間はつろうてつろうてよう泣いたと、始めのころは、やはりお友達が御広前に遊びに来る、今でも遊び友達がある、摂っちゃん遊ぼうと言うて御広前に上がってくると、こっと言うて御結界を立つようになった、そすと、あの、偉い、当時の秦先生とか近藤先生あたりがそこに両脇に座っておってそれを奉仕しておられた、はぁっ、金光様と言うて、その( )、そういうところを通ったというておられる。
泣く泣く辛抱しいしいにに座っておったと仰せられた、ね、泣く泣く辛抱しいしいに座っておりましたら、ね、段々思う事もなくなった、ほしいものもなくなった、そして、有り難うて有り難うてと言う事になられたということである、ね、だから、いかに神様、親様任せ、親様の仰せられる事であるから、ね、神様が言うて下さる事であるから、親先生が言うて下さる事であるから、泣く泣くでもそこんところを辛抱しいしいに辛抱させて頂きよったら、段々有り難くなってくるという事になってくるという事になるのです。ね。
ですから、なかなかその辺のところが、まあ、難しいといいや難しい、ね、そこに、ほしいものもなくなり、思うこともなくなり、有り難うて有り難うて、そのお礼の足りないお詫びばかりをしておりますと言うような気持ちが開かれたと訳なんです、親様任せになられた、楽じゃと仰ったけれども、決して楽じゃなかった、ね、こんところを信心の稽古をさせて頂く者はよう一つ分からせて頂いてですね、ね、こんところが泣く泣く辛抱しいしいだろうと言う思いでおかげを頂かにゃいけん。
今日、久留米の大祭から帰ってきて、今日は麻生さんがお供をしていった、若先生が御夕食をさせて頂いた後にです、私がお道の信心はね、信心が分かっただけでけん、と言うて御利益だけでもできえん、もう毎日毎日が有り難いなと言う実感の中に勤めさせて頂けれるおかげを頂かにゃでけん、そしたら、どげなん信心すりゃ有り難うなるじゃろうかちいうて、ね、どげなん信心すりゃ有り難うなれる、いわゆる、泣く泣く辛抱しいしいにと言うところをです、ね、座っておれば親様から見れば楽だけれども、金光様、三代様にとっては、それこそ、泣く泣く辛抱であったけれども、そこを辛抱し抜かせて頂きよる内に思う事も欲しい事もなくなるほどの有り難さと言うものが頂けれるのだと、どうすりゃ有り難うなれるじゃろうかと言うて腕くまぬいとるだけで有り難くなるはずがないじゃないかと、ね、遊びに行きたいところに勝手に遊びに行く、自分のしたいような事をする、それで金光様と言うておってもおかげを受けようけれども、有り難うなるような働きがそこから生まれてこないのだ、と言う風に説明をしたんですけれども、なかなか若い者にもむず、いや、お互いに難しい事なのである、ね。
けれどもその有り難うなると言うところをです、お互いが頂かせてもらうためにです、事にあたり、事に接しさせて頂くたびに、ね、そこんところを私は神様任せになられる信心にならにゃいかん、なぜ神様任せにならにゃんおれん事に成る為にはです、もういよいよだから自分では力がないのだ、自分は無力なのだという事を分からにゃいけんという事、ね、いよいよ自分が無力であると言うところから、ね、もう、本当に神様の仰せどおりに仕らなければ仕方がないのである、そこから初めてです、おかげが頂かれる。私が現しておると言うならばです、そう言うような場合、もう本当に神様どんなに考えても右が良いと思いますけれども、あなたが左と仰るから左にと言うような日にちなのでございます、ね。
ですから、私が神様任せになっておるから、神様が私任せになって下さっておると言う信心がこのように現れておるのでございます、ね、ですから、このように現れておるという事にはどこにでもあるのです、もっともっと大きな現れ方をしておるところがあるのです、けれどもです、天地の親神様が、そこに、ね、天地の親神様がです、その氏子の上にです、例えば合楽の教会の上にです、現れておられるんだなと思われるようなおかげと言うのはです、こんな修行したからこんな御広前が出来た、こんな物を大事にしたからこげなん立派な教会が出来た、信者が出来たと言うところもあるけれども、ここの場合は徹頭徹尾です、神様任せにならせて頂いてから出来たものである。その神様任せになったら、神様が私任せになってくださるところのおかげがこう言うふうに現れたと言うところをです、私は竹内先生はキャッチされるのじゃなかろうかと言うふうに今日は思わせてもろうたんです、ね。
ですから、そんなことにです、お互いが焦点を取り組ませて頂くところから、もうここを分かったら死んでも良い、死んでからでもあなた任せなりゃいいのだから、ね、本当にこの世にある内にあなた任せになるという事がこのようにも有り難いものだと言う、ね、それを信ずる力、それを真心で受けて行く、それを神心になって行じていくところの信心がです、いよいよ、神様を、まあ私に言わせれれば、本当の意味合いにおいて現す事の出来れるおかげ、氏子が神様任せなら神様が氏子任せになって下さるおかげ、そう言うおかげが私共の、いやば、生活の上に、ね、言うならば、この地上にそう言う信心によって現れるところのおかげであって、私は本当の意味でのおかげである、それこそ、神様が喜んで下さってのおかげである、神様も満足して下さってのおかげがそこに頂けれるようになると言うふうに感じるのでございます、ね。
本当に皆さん、今日、竹内先生のそのお話の中から、竹内先生は私の信心のだいたいどこを頂かれてあのように感動されたであろうか、今まで探しに探しに求めておったものがここにあったと思われたのはなんじゃったんだろうか。天地の親神様のお働きをここに現しておると言うが、どのようなものを私は現しておったんだろうか、ね、それはこの形ではない、勿論形も含めてですけれども、こう言う信心からこう言う現しが出来たという事を、その信心を突き止められた、ね、だから、こんところを自分のものすればです、そこんところが分かればです、もう、あの世この世を通して、おかげが頂けれるんだ、ここに一つ焦点を絞ってこれからの信心の稽古もすればよいのだ、勿論信心の稽古の上には疑いはサラサラないけれども、疑問は大いにできるのであろう、けれどもその疑問を自分で分からせて頂きながら、また分からんところがお尋ねして分からせて頂きながら進んで行くのだ、そこんところを分かる時にそう言う信心、ようも合楽に御神縁を頂いておってよかったと言うおかげが頂けれるんじゃなかろうかと思うのです。
ただ合楽にお参りをしてこげなんおかげを頂いたことが有り難いと言うだけのものではない、そう言うおかげをおかげと思うて、皆さん信心を進めて行かなければいけんと思うのでございます。
どうぞ。